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孔子と儒家思想


孔子(公元前551~-公元前479),本名は孔丘、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。父の本名は孔だが、ふつう叔梁(しゅくりょうこつ)とよばれる。母は顔徴在(がんちょうざい)という。公元前551年(魯襄公二十二年)に,孔子は魯の国(現在の山東省曲阜市)で生まれた。生父母は尼丘山で子供の誕生を祈ったがゆえに、名は丘とし、字は仲尼としたのである。孔子が生まれて3年後に父は死に、そののち母親に従って阙里に引っ越し、家族は貧窮にくるしんだ。孔子はそれでも15歳のときに学問をしようと志をたてた。
30歳のころには礼を知る人物として世間に知られるようになった。阙里で弟子の指導にあたった。当時、貴族の子弟には教育がおこなわれたが、庶民の教育については、徒弟制度の技術の伝授しかなかった。孔子のもとにあつまってきた弟子たちは、ほとんど庶民の出ながら、人として道徳的に生きることをめざし、政治にこころざす者たちであった。
50歳をすぎたころ、魯の定公にみとめられ、まず中都の知事に任用され、ついで魯国の司法大臣に任命された。晩年、直接政治にはかかわらず、古典を整理したり、礼楽の整備や講習をして教育に専念した。ついには「弟子三千人」と称せられるまでになった。そのうち、六芸(礼、楽、射、御、書、数)に通じる者は72人と言われる。紀元前479年に魯の都の曲阜で没した。
孔子は中国春秋末期の偉大な思想家と教育家であり、孔子によって創立された儒教の思想体系は修己治人(しゅうこちじん)の学問であるといわれる。つまり自己の徳を修めて、それをもとに教育や政治によって他人をみちびき治めるのである。その主な学説は“仁”“义”“礼”忠”“孝”“恕”の五つである。
“仁” は人が本来的にもつ愛情であり、仁の実践は、具体的には忠恕(ちゅうじょ)、つまり、真心と思いやりを実行せよ、父母をうやまい孝であれ、また年長者に対して悌(てい)、つまり従順であれなどと説かれる。
戦国時代(前403~前221)の儒家には、傾向のあい反する2派が生じた。孟子と荀子である。孟子は孔子の継承者として、仁とともに義をあわせて仁義をとなえ、だれにでも他人の不幸をみすごせない心(人にしのびざるの心)があるから、人間の本性は善であるという性善説をとなえた。それに対して、荀子は、孟子の性善説の主観的な側面をきらい、社会に悪がこのように多くあるのは、ほかならぬ人の本性は悪だからだという性悪説をのべ、聖人によってさだめられ、人々に客観的にしめされた行動規範である礼をおさめてこそ世の中はよくなるのだと説いた。
秦の始皇帝による焚書坑儒により、一時期、儒学もおとろえたが、漢の時代(前206~後220)になってしだいに復活する。武帝の治世の前136年に、董仲舒の奏上により五経博士がさだめられて儒教は国家教学となり、政府の要職につく者は儒教的教養を必要とするようになるのである。唐の時代(618~907)には、儒教的教養が人々のもっともあこがれの地位であった高位の官僚となるためにかかせないものとなった。そして知識人たちには共通の学識として重視された。さらに、宋の時代の宋学、明朝の理学のよって、儒教の思想を更に発展させたことになる。

[孔子の主な著作]
《論語》は 孔子の思想は弟子によってつたえられた。弟子たちが孔子との問答を記録したものを、何代かのちの弟子たちが編纂したのが「論語」である。「論語」は孔子の思想について知ろうとする際にもっとも信頼できるものとみなされている。
《中庸》は《小戴礼記》中の一篇であり、子思の作だとされている。中庸や誠の道理を天の理法とむすびつけて解説した倫理原論である。。
《大学》は元々《小戴礼記》中の一篇であり、子思の作だとされている。儒学の政治原論であり、 宋の時代以降、教科書よして採用され、官吏を登用する科挙試験にもちいられたことから、古代の教育に大きな影響を与えた。

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