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 山東の文化


民俗文化


山東の民俗文化は、昔から現在に至るまで、移民、交通、出稼ぎなどの原因で地域間の交流が絶えず行われ、民俗は発展変化し、吸収性と開放性を兼ね備えた態勢を作り上げました。
移民がもたらした民俗文化は山東の民俗文化に深い影響を及ぼしました。明代初期に広く行われた“移民寛郷”(移民によって村を広げる)開墾政策により、明の洪武二年から永楽年間まで数多くの移民が山西省の洪洞県の大槐樹から山東の徳州、濱州、聊城、泰安、荷澤、済寧一帯に移住し、その一部分は前後して濱州一対に東遷しました。このように山西省の移民は山東各地に分布しています。山西の民俗は例えば寒食(冬至後105日目の日)には、炊事の日を炊かないなどの影響を山東に与えました。魯の西北の数県(今の聊城一帯)の居民の多くは明代の初年に直隷(今の河北省)の棗強県から移民して来、彼らの居住している地方の年画、泥の玩具などの民間芸術品は、今でも棗強の作風とよく似ています。明代の初期四川から移民した人たちの多くは莱州に集中しているため、莱州の風俗は東隣りの地方と違うところがたくさんあります。さらに多くの地方から移民して来たため、山東各地の風俗はそれぞれ異な  ります。
元、明、清の三代に繁盛した京杭大運河沿岸の港町、例えば山東地区の徳州、濱州、聊城(東昌)、済寧などは、南北の運漕の影響を受けて、風俗は山東の外の地区と違うところがたくさんあります。これらの町の多くにはほとんど竹竿通りが有り、江南でよく見られる竹で編んだ店舗が集中していて、通りに面して設けられた茶館は、店の構え、売る茶、飲む茶などだいたい同じです。済寧の玉堂醤園は蘇州から運河を伝って移り住んだので、その産品は今でも江南の風格を保っているばかりでなく、今でも“姑蘇老店”の看板を掲げています。
出稼ぎが民俗文化交流にもたらす典型的事例は、歴史上の山東人の関東(中国の東北地方)下り(“闖関東”ともいう)に多くみられます。山東人の関東下りはだいたい二種類に分けられます。一種類は、飢饉を逃れて一家あげて東北の村や山に移り住むもので、俗にいう“被逼無奈闖関東”(逼られてしかたなく関東に闖入する)です。もう一種類は家は山東にあって、大部分は東北に住んで商売をする、俗に言う“住地場”です。彼らは山東の風俗を東北に持って行き、また、東北の風俗を山東に持ち帰りました。長期にわたる交流は両地の民俗文化に多くの互いに似た点を生み出しました。特に一連の内容の同じ民間の伝説、物語が山東と東北に同様に広く伝わっています。

婚嫁風俗
山東一帯の婚姻は、大体次のような段取りでおこなわれます。議婚(婚姻について協議する)、訂婚(婚約する)、送日子(日どりを決める)、鋪房(新婚夫婦のための部屋をしつらえる)、迎娶(花嫁を迎える)、拝堂(新郎新婦が杯を交わす)です。
この段取りのなかで、迎娶が最も賑やかで、最も特色があります。婚礼の日の朝、楽器を奏でる人が先ず主人の家に来て門の前を演奏して通り、その後洞房(新婚夫婦の部屋)に入ってもう一度演奏します。しばらく休憩したあと、迎親(花嫁を迎える)の花轎(花かご)を担ぎだします。一般に迎親の花かごは二台あって、新郎が乗るのを“官轎”花嫁のために準備されたものを“花轎”とよびます。
迎親の時花轎を空にすることはできません。一般に父母両方そろった男の子を中に座らせ、手に持った大扇子には“小登科”(科挙に合格した人)と書かねばなりません。一切準備ができたら、三回爆竹を鳴らし、“三吹三打”のあと、やっと新郎は、花嫁の家の門を入ることができます。新郎はまず花嫁の祖先と家長を拝みます。花嫁のお化粧が終わると、楽隊はお祝いの曲を高らかに演奏します。花嫁はその兄弟たちに椅子で担がれて部屋を出、花かごに入れられます。これは二度と実家の土を踏まないという意味です。博山一帯では花嫁は“抱いて”かごに乗せられます。
結婚の当日、花嫁の兄弟は花嫁を背負って逃げ、伴娘(付き添いの若い娘)が護衛します。新郎は人を連れて追いかけ、一通りの象徴的な争奪戦の後、花嫁をかごに乗せます。花嫁がかごに乗った後、水をかけるという風習が多くの地方であります。これを“嫁出去的女児、溌出去的水”といいます。新郎新婦がかごに座るのをまって、かごかつぎの隊長の号令で、二つのかごは同時に担ぎ上げられ、花嫁は、嫁取りの隊伍に守られて嫁入りします。

居住習俗
山東では村里が一箇所にたくさん集っている所を“屯”“村”“荘”とよびます。大多数の人は中庭のある平屋建ての家に住んでいます。村の建物は一般に草葺、瓦葺、泥平屋根などです。草葺のうち、海帯草の家は非常に特色があります。海帯草の家は一種の海生植物海帯草(昆布)で作ったものです。屋根の勾配はきつく、屋根の一番上は巻き棚(棟木を使わず両側の斜面を曲形に仕上げる)になっていて、円く、ふっくらとしていて、遠くの高い所から眺めると大魚の背中のようです。この種の家は、冬は暖かく夏は涼しく、四五十年は雨漏りしません。

伝統節会(伝統行事)
伝統節会は各地の廟会(廟の縁日)、山会(山の祭り)が発展してきたもので、その規模、影響は廟会、山会より更に大きく、更に広いです。

1、 済南千佛山廟会 済南の風俗として、毎年陰暦の九月九日重陽の節句に、人々は千佛山に登り、“賞菊岩”に立って菊を鑑賞します。元代から九月九日は千佛山の廟会と決まりました。千佛山の付近は柿が良く採れるので、廟会の期間、よく熟した柿が売られ、廟会に来た人はよく柿を買って帰ります。このため千佛山廟会は“柿子会”と呼ばれています。廟会の期間、麓から中腹の興国禅寺の間の1キロあまりの山道の両側には、固定や流動の1000あまりの露店が並び、日用雑貨、特産品、風味小吃(地方色、民族色豊かな軽食や点心)工芸美術品などが売られ、省内外から来た民間芸術団体が廟会の間、曲芸、サーカス、歌舞などを上演し、たくさんの人出でとても賑やかです。

2、 東岳廟会(泰山廟会) 東岳泰山は五岳の首で、佛教道教併存の神山です。泰山のふもとの岱廟は泰山の神―東岳大帝を祭っています。伝説によると、陰暦の三月二十八日は泰山の神の誕生日で、歴代の皇帝の多くは、この日岱廟で封禅の大典を挙行しました。帝王の慶典活動、佛教の宗教活動、民衆の廟に詣で香を焚く活動で、岱廟一帯は交易活動と娯楽活動を主要な内容とする東岳廟会を形成してきました。宋代元代以後、東岳廟会は北方で規模が最大、影響力が最大の廟会となり、泰安もまた重要な商品の集散地となり、元代、明代には華北で最大の騾馬の交易市場となりました。
歴史上の東岳の廟会の盛況は、史籍に少なからず記載されています。明末清初の張岱の《岱志》に次のように記述されています。“東岳廟……広さ百畝。行商人や仲買人がその間を行き来し、交易者の多くは女人や子供である。ほかの空き地では、闘鶏、蹴鞠、走解、講釈、相撲の台が四五、戯の台が四五、数千人が蜂の如く蟻の如く、一方を占めている。銅鑼と太鼓と歌声は、遠く離れていて、交じり合うことはない。”民国の時代、毎年廟会の時期は善男善女が遠くから来て、廟に詣で香を焚く者が途絶えることなく、山中の居民は多く出て、香や蝋燭、死者に捧げる紙で作ったお金を売り、商売が盛んでした。沿道には物乞いがたくさんいました。建国後は、廟会は物資交流大会に変わりました。
1986年泰山廟会の場所は泰山環山路の紅門、王母池を中心とする場所に改められました。新しい廟会は伝統的な廟会の一部の内容を保留しながらも、新しい内容と新しい特色で更に充実し、遊、玩、食、楽と、経済交易とが一体となり、規模と影響は年を追って拡大しています。

3、淄博灯会  淄博の元宵灯会(旧暦一月十五日の元宵節に行われる灯籠祭り)は歴史が悠久で、清の時代には全国で有名でした。建国後、灯会は一度中断しました。1986年正式に回復し、場所は淄博人民公園で空前の盛況で、大型の灯篭の櫓と小型の花灯篭がきらきらと照り輝いて、大いに異彩を放ちました。
伝統的元宵灯会の基礎の上に、淄博の陶器瑠璃芸術祭を統合して、1989年9月5日から10月5日まで淄博人民公園で“第一回淄博金秋灯会”が行われました。“楽しい淄博”を主題とし、37の大型機械櫓灯篭と千の小型の民族花灯篭が展覧されました。大型櫓灯篭の主なものは“金馬騰飛”“聊斎趣園”“三龍鬧海”“許仙遊海”“雲霧仙閣”などです。灯会の期間接待した中国と外国の観衆は50万人以上でした。これ以後、淄博では毎年二度の灯会が行われ、一回は元宵灯会、もう一回は金秋灯会で、灯会を仲立ちとして、四方の朋と交わり、八方の商人を招き、規模の大きい経済貿易活動を行っています。
1992年9月、淄博は第一回全国花灯招待試合を行い、成都、重慶、武漢、南京、天津、済南、淄博など8都市が参加し、48組の大型彩灯と千に近い民間の工芸灯が展示され国内外の賓客が雲集し、非常に賑わいました。

4、胡集書会 胡集は、恵民県(古くは武定府)東南最大の鎮で、陰暦の二と七の日に市が立ち、毎年旧暦の正月十二日は春節後の最初の大きな市で、この日から灯節と書会を挙行します。胡集の書会は元朝に始まり、清初が最も盛んで、ずっと今まで続いて、700年あまりの歴史があります。
書会は前節、正節、偏節に分かれます。正月十二日、市が立つ時書会が始まります。正月十一日の前に、徳州、恵民、済南、淄博、煙台、滄州、石家荘、保定、唐山、北京、天津、内蒙古、遼寧、黒竜江、江蘇、河南などから来た説書芸人(講釈師など)は楽器や布団を携え、三々五々胡集に雲集し、一部のアマチュアの演芸愛好家がこれに随って来、鎮の各簡易旅館に分かれて泊まります。芸人たちが胡集に来る途中、沿道で講釈し芸を売るのを“前節”といいます。正月十二日の朝早く芸人たちは市場に来て、露天を広げ、旗を揚げ看板を掲げ、各自登場して演技を披露します。午前10時鼓樂があちこちで起こり、爆竹が一斉に鳴り、書会が正式に始まります。この日から正月十六日までを“正節”といいます。この期間に正月の元宵節があり、当地の民間の龍踊り、ヤンコ踊り、高足踊り、抬芯子、曲芸、武術などの伝統的芸術が演じられ、書会は最高潮に達します。書会の正節の期間、芸人の出演料は一番高くなります。書会の曲種は豊富多彩で、西河太鼓、木板太鼓、毛竹板書、評書、渤海太鼓、山東快書、山東琴書、漁鼓書などがあります。胡集付近の村や鎮の農民は特に書を聞くのを愛好し、朝早くから起きだして書を聞きに行き、芸人を内も三重外も三重に取り囲みます。各村も書に詳しい人を派遣し気に入った曲目を選び、その芸人を自分の村に招いて、その村人が報酬を払って演唱させます。正月十二日の夜からの数日間は、各村ごとに昼と夜芸人が上演し、もし主人が引きとめれば、引き続いて演じ、引き止められなければ、再び正月十七日の大集書会に行きます。十七日から二十一日までを“偏節”といい、偏節が過ぎると書会は散会します。書会の期間、芸人は相互に新年を祝い、書目を交換し、技芸を磨き、弟子を取り師につき、極めて人付き合いと敬業精神にあふれています。書会が終わると、芸人たちは途中で芸を売りながら帰っていきます。そして、翌年の正月十二日に、また四方八方から胡集に集まってきます。
“文化大革命”中、悠久な歴史を持ち、全国的に有名な灯篭祭りと書会は中断させられました。1988年陰暦の正月十二日、書会は正式に回復し、その後一年また一年と賑やかになってきています。

民間剪紙(民間切絵)
山東の剪紙は造形の風格からだいたい二種類に分けることができます。その一種類は渤海湾区域の荒々しく豪放な風格で、黄河流域の他の省の剪紙と一脈通じるところがあります。もう一種類は更に特色を持った山東膠東沿海地区の線を主とし、線と面が精巧に結合した剪紙で、それは山東の漢代画像石のきめ細かい風格と一脈通じるところがあり、その模様の密集した装飾手段は、単純で爽快な外形を更に豊満で豊富にしています。
山東の膠東では手先の器用な女性を“伎倆人”といいます。人々は“伎倆人”をどの村の出身であるかにかかわりなく、招くことを光栄とします。彼女らの模様はしばしば手漉きの紙に煙で燻されて至る所に伝わり、遠近の村々の剪紙の模様になっています。剪紙の用途で最も多いのは窓を飾ることです。膠東の窓の多くは細長い格子で一般に小さな花を貼ることができるだけですが、女性たちは自己の創意で開発した、全体を細分する方法を運用し大きな構図を細長く分割して剪り出し、窓に貼って組み合わせ完成した画面を作りだします。  この種の“窓越”といわれる剪紙は一般に“窓心”に張ります。このほかに“窓角花”“窓傍花”および窓の前に掛けて動かすことのできる“闘鶏花”など一系列の“窓のれんじ文化”を構成しています。祝慶日の居室のしつらえと適応して、剪紙は更に壁や天井、仰棚の装飾、および器物の貼り花としても用いられます。

民間楽舞
山東の民間舞楽にはヤンコ、高足踊り、竜踊り、太鼓踊り、灯篭踊り、跑旱船、跑驢などがあります。そのなかで、“跑旱船”が最も特色があります。“旱船”または“采蓮船”とも呼ばれ、船は多く竹を用い、木の枠で、外は布で飾り、踊り手の女性の腰に結びつけ、更にあるものは偽の足を船の上に出し、踊り手の体とうまく組み合わせ、まるで船に乗っているように見せます。もう一方の手には櫂を持ち、舟を漕ぐ動作をします。二人で舞い、舟を漕ぐさまざまな動作をし、一方で歌い一方でおどります。一般に労働と愛情のいきさつを表現します。

漁師の習俗 
早くは中国の古代春秋の時期に現在の威海の栄成のあたりは大いに魚塩の利を興していました。毎年穀雨(24節季の一つ、現在の4月20日ごろ)のころ、春の川が増水すると、たくさんの魚がやってきて、一冬ずっと休んでいた漁民たちは忙しくなってきます。魚を捕りに海に出、新しい一年の海上生産が始まるのです。たくさんの海の幸を授けてくれた“海神”に感謝するために、毎日海の幸で蔵が一杯になるように祈り、災難を免れるように神に祈るため、漁民たちは穀雨のこの日、伝統的な祭神活動を行いました、これ以来、穀雨は栄成の漁民の祭日になりました。改革開放以来、豊かになってきた漁民たちは新文化、新観念、新思想を穀雨の祭りに浸透させ、純粋に神を祭り平安を願う心理から、人生を楽しみ、豊かな収穫を喜び、歌ったり踊ったりする高尚な境地に進み、この活動のレベルをますます高め、栄成の漁民の生活の中の重要な文化、娯楽内容としました。広大な漁民の願いに順応し、民族文化を広め高めるために、栄成市政府は1991年から栄成国際漁民祭りを行うことを決定しました。
栄成国際漁民祭りの第1回と第2回は穀雨の期間に挙行され二日間でした。第3回(1993)は7月24日から7月28日におこなわれました。連続して4回行った後、三年に1回行うよう改められました。毎年の漁民祭りには1万人近い中外の来賓と10万人の当地の群衆が参加します。漁民祭りは国内外の文化交流を増進し、経済を発展させ、開放を促進し共同繁栄を宗旨として、新聞発表会、典礼儀式、遊芸活動、観光旅行活動を挙行し、地方の名産品と書画の展覧、貿易の交渉、文芸晩会、などの活動を行い、漁民祭りを中国の海の文化の盛会とし、中外の来賓の高い称賛を得ています。

済南民間習俗
七月三十日放河灯(精霊流し)
済南では、過去毎年七月三十日の晩、各寺院は盂蘭盆会の読経をしました。ある家では、たくさんの線香を焚き、院内の塀の根元や、通路の地上に一本一本挿して、地蔵菩薩にたいする敬虔の気持ちを表しました。またある人は精霊流しの形式で河で死んだ人の霊魂を済度しました。陰暦の七月三十日は佛教の地蔵菩薩が悟りを開いた日だそうです。地蔵菩薩は悟りを開いたとき、罪業を持った衆生を普く済度し、罪人を苦界から離脱させようとの誓いを立てられたそうです。このため、七月三十日は“亡魂”を済度する日になりました。川に流す灯篭は小麦粉で作ります。乾かした後、灯碗に豆油を注ぎ、綿花を縒って灯心にし、火を点した後、川に放ち、流れに沿って漂わせます。このとき、川いっぱいの灯火は、きらきらと輝き、ゆらゆらと漂って、川の水は夕焼けのように赤くそまります。川で溺死した“鬼”は灯火を見て、再度人間に生まれ変わることができるのだそうです。
当時、済南の大明湖の北岸の北極廟の道士たちもまた、陰暦の七月三十日にお祈りをし、亡魂を済度しました。道士たちは、昼間は経を読み焼香に来た“施主”を廟の中に招待し、職人を雇って作らせた、色紙を貼り合わせた大型の“法船”を廟の前の湖水に放ち、客をひきつけます。夜になると、道士たちは、きれいな錦繍の法衣を着て、シンバルを鳴らし、笙の笛を吹いて、幾十段の高さの北極廟を隊列を組んで出てきて、法船の前で“疏頭”(祈祷書とそれを入れた筒)をやき、同時に紙で作った大型の法船を焼きました。一時間、烈火は燃え盛り、湖面全体を明るく照らし、済南市全体をあっといわせました。そのために廟内、湖畔とも万にのぼる人々の頭がいっせいに揺れ動き、大変な混雑でした。

明湖のレンコン(大明湖の蓮根の収穫)
済南は蓮根がよくとれますが、大明湖の蓮根は特に有名です。解放前の大明湖は、暦下亭の周囲と船の行き来する水路以外は、あぜ道が縦横に走り、一つ一つ水田を形成していました。水田は東に一区切りの蓮、西に一区切りの蒲、堤が水を遮り、蒲と葦がまた蓮を遮り、果てしなく続いていました。水が比較的深く、泥もまた厚いため、蓮根や蒲しか栽培することができませんでした。蓮根を採るときは足で水面の下を探って採るしかありませんでした。このため、足で蓮根を採るのは済南の一種の伝統的習俗になりました。蓮根を採る時、皮で作った水を通さない“連衣袴”を穿きます。皮衣は水にぬれると柔らかくなるので、穿いた人は水中で手足を自由に使うことがどきるのです。人の頭と皮衣の上部が水面に浮いたり沈んだりするのは非常にリズム感があります。このとき蓮根をとる人は足で水面下の蓮根を探ります。蓮根を探り当てた後、適当な節を探り当て力を込めて踏み、上下に切断した後、足で探って蓮根を水面に取り出します。黒い泥を蓮の断面に塗り、水が入るのを防ぎます。蓮の中に空気があるので、浮くことができるのです。そうでなければ沈んでしまいます。最後に水面に浮いた蓮根を集め市場に担いでいって売ります。

曲水流觴(曲水の宴)
漢の時代から、陰暦の三月上旬の巳の日は“上巳”と決められました。この日人々は水辺に行って禊ぎをして不祥を取り除きました。これを“修”といいます。魏晋以降、この日を三月三日に確定しました。この日“修”の後、人々はついでに野外の宴会と“曲水流觴”の詩酒の盛大な会を挙行しました。遊楽する人たちは、湾曲した渓流の傍に並んで坐り、酒を觴にいれて、盆の上に置き、渓流の上流の水面に放ち、流れにしたがって漂わせます。觴杯が漂って折れ曲がったところに来ると、しばしば停まって動かなくなります。たとえ前の曲がったところで停まらなくても、後の曲がったところで停まります。酒盃が目の前に停まると、その人はすぐ酒を飲み、詩を作り吟唱しなければなりません。詩ができなければ罰酒を飲まされます。これを“曲水流觴”或は“流觴曲水”といいます。晋の代宗は“荊楚歳時記”の中で“三月三日、士民併出江渚池沼間、為流杯曲水之飲”と書いています。
遠くは北魏の時代に、済南の士大夫は現在の曲水亭街付近に曲水流杯池を作りました。北魏の酈道元は《水経注》の中に“暦祠下泉源競発、北流経暦城東又北、引水為流杯池、州僚賓宴公私萃其上”と書いています。流杯池は現在の王府池子で、池の水は北に出て、曲折して東に流れ、今の曲水亭街に至ります。当時ここは清流が照り映え、楊柳がゆらゆらとして、岸は平らで草は柔らかく、曲水流觴の理想の場所でした。
現在の曲水亭街は、珍珠泉の北、大明湖畔の百花洲の南にあり、曲水亭は依然としてあり、流水も元のままですが、渓流はすでに曲折をなくし、水亭も取り除かれてしまいました。しかし流れに従い溯ると、王府池子から起風橋一帯は渓流が曲折して流れ、曲水流觴のあとをかすかに尋ねることができます。なかでもこの一帯はまだ多くの“家家泉水、戸戸垂柳”の泉の町の風格を留めていて、一度ここに来ると、もう“曲水流觴”を見ることはできないまでも、ここの秀美な景色は人をして流連忘返(名残おしくてたちさりがたい)気持ちにさせます。

碧筒飲
蓮の花は済南人の生活の中で、重要な地位を占めています。蓮の花の利用法で済南にはいくつかの特殊な習俗があります。その中で一番面白いのはなんと言っても碧筒飲でしょう。
唐代の人段成式の“酉陽雑俎”という本の記載によると、古代、大明湖の蓮の花が全開の際、ある官吏や文人たちは、いつも湖畔に避暑に来て、湖の大蓮を刈り取ってきて、美酒を盛り、簪で葉の中心部に穴を開け茎の空の部分に通じるようにします。人人は蓮の茎の末端から酒を飲み、その味わいは当時親身に体験した文人の話によると“酒味雑蓮香、香冷勝于水”(酒の味と蓮の香りが雑じり、香りと冷たさは水に勝る)そうです。これがつまり唐宋の文士によって美談として伝えられる“碧筒飲”です。
済南では、蓮の葉は酒を盛る以外にも、たくさんの独特の風味を備えた食品を作ることができます。みずみずしい蓮の若葉を、さっと湯通しした後、粥を炊くとき粥の上にかぶせます。煮あがった粥を冷ました後、砂糖を加えます。色は碧で味は香ばしく、名を“荷葉粥”といい、済南の夏の有名な小食品です。“米粉肉”“粉蒸肉”の作り方によって、まず豚肉を切り、米を炒め、醤油を混ぜ、大明湖産の碗の大きさほどの蓮の葉を選んで洗浄し、その蓮の葉に豚肉と炒めた米を適量包み、碗に入れて、更に蒸篭に入れて蒸します、蒸しあがったのが“荷肉”です。肉と蓮の葉を一緒に食べると、豚の旨味と蓮の清清しい香りで、特別に美味しいです。同じような方法で、蓮葉鶏、蓮葉魚などの佳肴を作ることもできます。このほかにも、蓮の葉で包んだ食べ物があり、これも済南特有の風俗です。以前食料品店で売っていた蒸包、鍋貼(焼き餃子)、熟肉(加工肉)漬物などたくさんの食品はみな蓮の葉で包装しました。こうすると油を透さず、水を透さず、清々しい味わいを添えるので人々に喜ばれたのです。
このほかに、過去済南人は蓮の花弁を食べる習俗がありました。そのなかで“炸荷花弁”は済南の夏特有の名菜でした。新鮮で整った清潔な花弁を洗浄したあと、薄い溶き卵をかけ、油鍋で揚げ、揚ったら上に砂糖を振ります。口に運ぶと、清々しい香りが口によく、無窮の味わいがあり、人々に喜ばれました。

千佛山“九九”登高
陰暦の九月九日はわが国の伝統的な重陽の節句で、毎年この日になると、古人は頭に山茱萸を挿して、手に菊花酒を提げて、高い所に登って遊びました。こうすると災害を避け、生活の安寧と幸福を手に入れることができるのだそうです。この“九九”の登高の習俗は、ずっと今まで引き継がれています。
済南では、毎年重陽の節句のこの日、人々は千佛山に登高します。元代から始まってこの日は千佛山の廟会になり、更に賑やかになりました。過去、九月九日のこの日は朝早くから、済南の各階層の人たちが、身に茱萸をつけ、登山にやって来ました。時は晩秋、天は高く気は爽やか、山前山後は満開の野菊が爛漫として錦のようで、清清しい香りが鼻を打ちます。このため“賞菊岩”に立って菊の花を観賞するのが、登山の大きな楽しみになりました。菊の鑑賞以外に、済南人にはまた菊を食べる習俗があります。白い菊の花弁を摘み取って、小麦粉をさっとつけて油で揚げて食べます。あるいは肉類を配して菊の花の鍋物にします。これに菊の花を浸した美酒を添え、山上の野外で食べると、格別の風味があり、清清しい香はくらべるものがありません。詩人の朱照は“重陽節同人挈酒暦山登高詩”の中で“閑招三両友、把酒酔南山、静喜高松下、香偎野菊間”この詩は、正に古人が重陽に千佛山に登った様子をいききと描写しています。
登山のほかに、過去の済南人は重陽の節句に蒸した棗の菓子を食べました。街で売っている棗菓子は、多くもち米と棗、或は小豆と棗で作り、よく蒸した後、街頭で、その場で切り分けながら売ります。民家で作る棗菓子は、小麦粉と棗を交互に積み重ねて塔の形にし、一番上に小麦で作った棒を菊の形にしてのせ、蒸して食べます。これを菊花棗糕といいます。なぜ重陽の節句に棗糕を食べるのでしょうか。“糕”と“高”が同音(gao)なので、棗糕を食べることは、登高の意味を表すからです。なぜこの日に登高するかについては、粱の朝呉均の《続斉諧記》に、書かれています。東漢の時代に費長房という人がいて、神通力が強く、風を起こし嵐を呼び、神を遣わして鬼を捉まえることができました。ある日彼は弟子の桓景に言いました。“九月九日にお前の家に災いが降りかかるであろう。早く準備をしなさい。”桓景は聞きました。“どんな方法で災いを防いだらいいのでようか”長房は“この日一家の者は皆赤い布袋を作り、茱萸を中に入れ、腕に掛け、菊花酒を携え高い山に行って飲めば、この災いを避けることができる。”桓景は師匠の教えを聞き、九月九日、全員で山の上に行って一日過ごし、夜になってから家に帰り、無事に過ごすことができました。このときから“重九登高、効桓景之避災”がだんだんと習慣になってきました。
近年来、千佛山の廟会は空前の盛況を示しています。もはや人々が登高するのは、災いを避けるためではなく、菊花酒を飲んだり、菊花鍋を食べたりする習俗をあまり見かけなくなったとはいっても、登山する人は昔どおり、陸続として絶えることはありません。人々は遊覧し、逸品ぞろいの土産物を選ぶ時、必ず山頂に上り、遠くを眺め、すばらしい山河と詩や絵のような済南の新貌観賞しながら、いろいろな思いが次々と湧き上がってきて、一種の美の享楽を感じるのを禁じることができません。

泰山岱下民俗
許願還願(願掛けと願ほどき)
この民俗は泰山周囲の方円数百里の古俗です。民国時代の泰安県志によると“泰山為五岳首、而聖田之廟在焉、既有求而必応、亦無感之不通。上山祈願一般在山頂碧霞祠向碧霞元君…泰山老奶奶祈訴。”“貧者求富、疾者求安、耕者求歳、賈者求息、祈生者求年、未子者求嗣。”併せて、元君に願いを叶えてくれるよう祈ります。願いがかなうと必ず願解きをします。まだ目的を果たさない場合は再度願を掛け、最終的に満足したところで、願解きをします。
願解きの方式は多種多様です。ある者は供え物を奉納し、ある者は衣を奉納し、扁額を奉納し、ある者はお金を寄進して廟を修理します。またある者は植樹造林します。

香社
香社は民間の香を焚き祈る自発的組織です。本村、又は十里八郷の善男善女で組織します。社首、或は会首が有り、規模が大きく、歴史の古い香社は“老会”といい、その他の香会の指導単位です。

進香
進香(香を焚き拝む)の準備は結構複雑です。会員に連絡し、会費を集め、祭りに必要なものを買い整えるなどです。進香には“春香”と“秋香”があります。東岳大帝の誕生日が陰暦の三月二十八日、碧霞元君の誕生日が四月十八日なので、この期間が香を焚くのが最も盛んです。準備が整うと山に登って進香します。進香の順序は“起程、沿路焚祠、衝火、落宿、登山、報号(泰山の娘娘殿の前で到着を報告)、朝頂、守架、進供、進香、下山、回香、做回、安駕、謝山”です。
山に上って焚く紙は主に三種です。一は黄草紙(当地では火紙という)です。二は玉皇大帝を頭取とし、東岳大帝を特別頭取とする額面の大きい冥土の貨幣です。三は元宝(馬蹄形の金貨、銀貨)で、錫箔を用い、貼り合わせて金銀対にします。碧霞祠には“碧霞之君璽”があり、お金のある人は道士に頼んで、これを捺印してもらうと効果が倍増します。

求子
求子(子供を授かるよう祈願する)人が最も多く、南北各地からやってきます。男の子を授かりたい場合は碧霞祠に金の男の子の人形を、女の子を授かりたい場合は女の子の人形をくくりつけます。そして泰山老奶奶に祈ります。

生育礼俗
泰山のふもとの数百里には、かつて一連の整った生育の順序がありました。一は吉日を選ぶことです。子供を授かりたい人は、必ず妻が出かけ、供え物を持って当地の“神  媽子”で吉日を選び求子の儀式を按排します。二は供え物の準備です。主に香燭、火紙、供え物などを買い整えます。お供え台に並べるのは二碗のマントウ、二つの盆の魚と玉子、二皿のなつめと栗です。供え物の前には三つの香炉を一の字に並べます。赤い布に祈願者の住所と夫の姓名を書きます。そして火紙を折って作った紙の箱にいれます。そしてお供え台を担いで、神媽子の家に行きます。三は儀式の挙行です。求子の祈願をする婦女は九本の香に火をつけ、香炉にさします。神媽と一緒にお供え台の前に跪き、神媽子が泰山の老奶奶に子供を授けてくれるよう祈って、赤い布を焼きます。その後神媽子は香を足し、再度婦女の求子の心願を訴え、香を焚きます。そしてそれぞれ一個ずつ棗と栗をたべます。それから神媽子と一緒に跪き、香を全部焚きつくします。四は願解きです。子供を授かったら、付近の泰山老奶奶の宮に行き願解きをしますが、最も良いのは泰山の碧霞祠に行くことです。もし子供ができなかったら再度願を掛けます。ただし“求子不過三”(求子は三度を超えてはいけない)です。

石敢当
わが国の大部分と国外でさえも泰山を源とする石敢当信仰があります。“泰山石敢当”と書いた石碑や石人が道や橋の要衝に立てられ、あるいは建物の壁の中に作られ、魔除けやら災害除けの作用をしています。

節礼習俗
泰山の脚下にはわが国の伝統的な祝祭日、例えば春節、元宵節、端午の節句、乞巧(七月七日)中秋、重陽などのほかに天貺節、浴佛節があります。天貺節は宋の真宗が泰山で封禅をしたのが起源です。西暦1008年、旧暦六月六日天は泰山に天書を下しました。このため、宋の真宗は封禅を行い、上天に感謝し、岱廟に天貺殿を建てたばかりでなく、六月六日を天貺節と定めました。この節句は現在では嫁に行った娘が実家に帰って両親に会う日になりました。或は衣を干したり、本の虫干しをしたりする日です。浴佛節は四月八日で、佛祖釈迦牟尼の誕生の日と伝えられています。この日、仏像を灌浴します。泰山付近ではこの節句に東岳大帝と碧霞元君の誕生のお祝いを加えて慶祝し、三位一体となり昔から大変盛大です。

東岳大帝誕辰
東岳大帝の誕生日は三月二十八日とされ、宋朝から毎年この日泰山の廟会を行い、東岳大帝を祭ります。場所は東岳廟即ち岱廟です。祭祈活動のほかに経済活動を加え、八方からの参拝客に服務します。

泰山廟会
元君の誕生日は四月十八日とされ、東岳大帝の誕生日と比較的近いです。清代末期碧霞元君の信仰は東岳大帝を超えました。このため廟会は往々にして期間を延長し、碧霞元君を祭る内容を加えました。“文革”の期間、泰山廟会は一度取り消されました。現在の泰山の廟会は5月6日から12日、廟会の内容は正常な宗教活動以外に、主たるものは商貿活動、旅遊観光、文化娯楽です。八方の人士が次から次へとやって来ます。近来、国外からの商人、観光客が絶えず増加しています。

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