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 山東の文化


書道


山東省は黄河下流域に位置し、東は渤海、黄海に臨み、内陸部は河北省、河南省、安徽省に接している。山東は“斉魯の邦”、孔子と孟子の生まれ故郷であり、中華民族文化の発祥の地でもある。山河は壮美、歴史は悠久、文化は燦爛たるものである。


雄大な泰山はここ山東省に聳え立ち、滔滔たる黄河はここで海に入り、東方の聖賢孔子様はここで誕生した。これらが沈黙のうちに中華文明の広さと深さを物語っている。長い年月にわたる重厚な歴史文化により、山東省には永久に名声を伝える書道の作品が数多く残されている。書道は中国文化の重宝であり、山東書道は中国の書画界において重要な地位を占めている。“書聖” 王羲之、顔真卿などの書道大家は皆山東出身である。山東にはたくさんの摩崖石刻や石碑、例えば、泰山刻石、天柱山、文峰山の魏碑、崗山、鉄山の摩崖石刻、曲阜の碑林などがあり、中国書画芸術の貴重な宝物と称されている。国内外の書道愛好家の要望に応えて、山東省の観光会社では、特別に“書道の旅”という観光コースを設けており、書道の世界を逍遥し、書道を尋ね、芸術の無限の魅力を知ることができる。

泰山大観峰


泰山における書道芸術は主として刻石の形式で保存されている。泰山の刻石は分布が広いうえ、数も多い。現存の碑刻は500あまり、摩崖石刻が800あまりで、いずれも中国の第一名山に数えられ、“中国書道芸術の回廊”と称されていて、非常に高い芸術価値と史料価値を有している。泰山頂の碑刻は“石碑が林の如く、刻石は群れを成す観を呈している”。秦の時代の“李斯碑”から漢代の“張遷碑”“衡方碑”、晋の時代の“孫夫人碑”、山上の北斉の経石峪の“金剛経”大字、泰山頂にある唐の時代の“紀泰山銘”にいたるまで、一つ一つの刻石は沈黙のうちに、われわれに中国書道史の絵巻を示しており、われわれを美しい歴史絵巻に誘い、すばらしい“書道聖地”を味わわせてくれる。

刻石の元祖――――秦の李斯の小篆刻石
泰山の秦碑は岱廟東御座大殿露台前の西側にあり、秦の始皇帝二十八年(紀元前219年)に立てられ、泰山の刻石の中で最も早い時代の作品で、秦の丞相李斯の篆書である。筆法は円滑で流暢であり、疎密の調和が取れていて、重厚で端正な印象を与える。唐代の張懐瑾は“その画は鉄石のようで、字は躍動的である”“筆の勢いが豊かで均整がとれ、直?曲線は絶妙である”と賛嘆し、中国刻石の祖と称されている。この刻石は元々二つの部分に分かれており、前半は紀元前219年秦の始皇帝が泰山へ巡幸した時、彫らせた144字、後半は秦二世の胡亥が即位元年(紀元前209年)彫らせた78字である。石碑の四面は大きさが違い、字は222字すべて李斯が書いたものである。現在は秦二世の詔書“斯臣去疾昧死臣請矣臣”のわずか10字しか残されておらず、“泰山十字”とも称されている。秦の泰山刻石は書風が重厚でおおらかであり、左右対称、疎密は適宜で、よく整っている。『岱史』には“秦は道なく腐敗しているが、秦が作り上げた文字、書道には及ぶものが世に無し”と記されている。

《衡方碑》
《衡方碑》は東漢建寧元年(168年)に立てられた。衡方の門下生朱登などが衡方のために立てた頌徳碑であり、現在は岱廟の東碑廊に置かれている。碑は高さ2.40m、幅1.1m、厚さ0.25mで、碑陽(碑の表)には隷書で815字が刻まれ、字径4cmである。朴厚凝重な書風で知られる。碑陰(碑の裏)には元々字があったが、『翟氏隷篇』によれば、識別できるのは23行計71字あったと記載されている。この碑の銘文の書体は、揮毫が力強く、隷書として名高く、張遷碑と並んで、歴代書道家の模写の手本となっている。

《張遷碑》
《張遷碑》は東漢中平三年(186年)に立てられた。谷城旧吏葦萌などが張遷のために立てた表頌碑であり、現在は岱廟の碑廊に陳列されている。碑は高さ2.9m、幅1.07mで、碑陽には隷書で567字が書かれている。碑陰には碑を立てた官吏41人の官職と出資した金額を記し、それは計323字、字径3.5cmで、すべて隷書である。碑額には2行、字径9.5cmの隷書で“漢字故谷城長蕩陰令張君表頌”と刻まれている。この碑は質朴古拙なものの傑作として知られている。

《孫夫人碑》
孫夫人碑は、城太守夫人孫氏の碑で、西晋武帝泰始八年(紀元272年)に立てられ、岱廟の碑廊に陳列されている。碑は高さ2.5m、幅0.97m、厚さ0.2mで、碑陽には隷書で字径3.5cmの文字が707字ある。碑陰には長方形の石をはめ込み、字径1.5cmの隷書142字で、清の嘉慶三年(1798年)泰安知府の書いた題記に、詳細にこの碑の発見の経過と立碑年代の考証などについて記載している。この碑は莱州休碑、河南太公望碑と並んで“晋代三大豊碑”と称され、その中でもこの孫夫人碑は最も早い石碑である。孫夫人碑は、西東両漢の俤を有し、運筆は謹厳、字は重厚で力強く、現在は半ば以上削落しているが、なお、晋書道研究の貴重な資料である。

大字の手本としての書の祖―――経石峪金剛経刻
中国で現存する規模が最大の仏教摩崖石刻の一つであり、斗母宫の東北の経石峪にある。この石刻はすでに彫った年月と人の名前は分からず、唐代の人の作という人もあり、北斉の人の書という人もある。経文は、面積2064㎡の緩やかな坂になった平坦な一枚岩に、東から西へ向かって、《金剛般若波羅密経》の一部が彫られている。後秦の鳩摩羅什の訳本を用い、原文は全1卷、32項、5172字であるが、そのうちの第15項“特経功德兮”まで彫ってあり、計44行、毎行10字或いは125字というふうに同じでなく、字径は50cm、現在は経文41行、合わせて1069字が残っている。その書体は躍動的で、力強く、隷書を主としているが、変化に富み、篆、行、楷、草の各書体を兼ね備えている。構成は雄大自然であり、筆法は力強い。その字の大きさ、規模の巨大さは、“天下第一”と称されて、ずっと“大字の祖”“手本の書の祖”と尊ばれてきた。

房彦謙碑
房彦謙碑は唐代貞観五年(西暦631年)に立てられ、泰山北麓房彦謙の墓前にある。歴史学者李百薬が碑文を書き、書道家欧陽詢の書で碑額“唐故徐州都督房公碑”と彫られた。碑文は隷書で78字、碑陰は15行、一行につき13字ある。房彦謙は初唐の宰相房玄齢の父親で、隋末になくなったが、唐になって、徐州都督、臨淄公が追贈された。欧陽詢は王羲之の書道を伝承し、独特奇抜な書法で独自に一家を成した。この碑は彼が70歳の時のもので、字体は隷書と楷書の中間にあり、六朝の味わいがあって、とても貴重なものである。

唐双束碑
唐双束碑は別名“鴛鴦碑”といい、唐の高宗顕慶六年(661年)に立てられ、現在は岱廟の碑廊に陳列されている。これは高宗李治から徳宗李適までの137年間、泰山で石像をつくり祭られた事を書き留めた碑であるがゆえに、《岱岳観造像記碑》と呼ばれている。碑は同じ形の石が二つでできており、また二つの碑を束ねてあるので、形が特異で《双束碑》とも呼ばれている。碑の高さは3.18m、幅1.05m、碑文は碑の四面にぐるっと回る形で刻まれており、毎面四五層、毎層に唐代の表題一、二首が刻まれて、全部で24首あり、その他に宋代の表題2首あり、書体は正楷書である。中には、武則天によって作られた文字が若干交わっており、数字はすべて漢字で書かれている。碑には、石像をつくり祭った事情が比較詳細に書かれており、《唐書》の不足を補うものになっている。

唐代の摩崖
  唐代の摩崖は唐玄宗《紀泰山銘》刻石とも呼ばれ、唐の開元十四年(紀元726年)に彫られ、大観峰崖壁の上にある。摩崖の高さは12.3m、幅5.3m、現存する碑文は1008字、字は16×25cmの大きさで、“御制御書”の4字と末行年月日が楷書のほかはすべて隷書である。額高は3.95m、隷書で書かれた“紀泰山銘”2行4字は、字の大きさ45×56cm、書法はきっちりとしていながら雄渾である。碑文は唐の玄宗皇帝の御書で、封禅の儀式を行った時の様子が記されていた。文章が燕許によって書かれ、韓史が推敲したと伝えられ、ことばは典雅で、唐代の歴史、書道、石刻芸術の研究にとって重要な価値がある。

神宝寺碑
神宝寺碑は唐の開元二十四年(紀元736年)に立てられ、現在は岱廟の碑廊に陳列されている。碑の高さは2.6m、幅1.3m、厚さ0.28m、碑文は隷書で1786字、字径2.5cmである。その字は運筆がきっちりとしており、“衡方碑”、“魯峻碑”と非常によく似ている。額の篆書“大唐斉州神宝寺之碣”3行9字は、字径15cmである。碑の左側に《仏説波羅密多心経》一卷、行書299字が刻まれており、唐代の李邕の書とされている。

青帝広生帝君賛碑
青帝広生帝君賛碑は宋の真宗大中祥符元年(紀元1008年)に立てられ、現在は岱廟の
東御座内に保存され、秦の泰山石刻と東西で相対している。宋の真宗は泰山の神を“東岳仁聖天斉王”とし、同時にいわゆる“東方の神”青帝に封号“広生帝君”を加え、文章を書き、碑を立て、額には“青帝広生帝君之賛”と記されている。碑陰に同年真宗が使を遣わし、青帝を祭った祝文が刻まれている。今のところ、碑額は5字しか残されておらず、賛銘、祝文はなお56字が残っており、泰山をつかさどる青帝の研究の唯一の碑刻である。

大宋封祀壇頌碑
大宋封祀壇頌碑は宋の大中祥符二年七月(紀元1009年)に立てられ、元は泰安城東南封禅台旧跡にあったが、後岱廟に移された。碑文は宋王朝の太祖以来の功徳を述べており、宋の真宗が泰山で行われた封禅の盛大な行事について記してある。碑は高さ4.5m、幅1.65m、厚さ0.8m、碑文は行書で3777字、字径2.5cmである。碑額には篆書で“大宋封祀壇頌”の2行6字、字径13cmの字で記してある。碑に記載されている封禅の事は《宋史》と完全に一致し、さらにそれを補っており、封禅大典の研究にとって非常に高い史料的価値がある。

宋天きょう(貝兄)殿碑
 宋天きょう(貝兄)殿碑は宋の大中祥符二年十一月(紀元1009年)に立てられ、岱廟天きょう(貝兄)殿前の西碑台にある。碑は高さ3.5m、幅1m、厚さ0.42mである。楊億が文を書き、尹熙古の書である。碑文は行書2184字、字径2.5cmである。碑額に篆書で“大宋天貝兄殿碑”(貝兄は一文字)の2行6字で、字径15cmである。碑陰には明の天順五年(1461年)の《重修東岳神廟碑記》が記されている。碑文は詔勅を得て、天貝兄殿を立てた経過を述べており、岱廟と天貝兄殿の研究上貴重な資料である。

宋東岳天斉仁聖帝碑
宋東岳天斉仁聖帝碑は、祥符碑とも称され、宋の大中祥符六年六月(紀元1013年)に立てられ、現在は岱廟の配天門院の西碑台にある。その形は雄大であり、炳霊門外の宣和碑と遥かに向かい合っている。晁廻は文を書き、尹熙古の書である。碑は高さ8.2m、幅2.3m、厚さ0.6mである。碑文は行書で2319字、字径5cmである。碑額に篆書で“大宋東岳天斉仁聖帝碑”の計2行10字、字径15cmで書かれている。碑陰は明代の張允済と王賢によって書かれた字径1.1mの“五岳独宗”が刻まれていて、岱廟の二つの代表的な石碑と称されている。碑文の書体は楷書で、艶やかで美しい。碑陰の大字は気持ちがよく伸びやかな字である。

宋大観聖作碑
宋大観聖作碑は宋の大観二年(1108年)八月に立てられ、元々は文廟にあったが、後に岱廟に移された。彫られているのは、李時雍が模写した宋の徽宗の御書《八行詔》である。碑は高さ4.5m、幅1.5m、厚さ0.41mで、碑文は楷書71字、字径3cmである。本文の後に年月が2行、諸臣の官位名4行が刻まれている。その字は細く、構成は端正荘重である。碑額に行書で“大観聖作之碑”の3行6字、字径13cmで刻まれており、蔡京が勅を奉じて書いたものである。亀形の台座は高さ1.1m、幅1.55m、長さ3mである。

宋宣和重修泰岳廟碑
宋宣和重修泰岳廟碑は宋の宣和六年(紀元1124年)に立てられ、岱廟の炳霊門前にある。碑は高さ9.25m、幅2.1m、厚さ0.7mで、碑の周囲のは方夔紋が刻まれており、竜首亀形の台座になっており、亀形の台座は高さ1.85m、幅3m、長さ5m米である。碑は高く大きく、雄大で、碑の台座は素朴古風で重厚であり、作り方は雄大で、石刻は繊細であり、岱廟諸碑の冠たるものである。碑文は楷書で1268字、字径5.5cmで、碑額に篆書で“宣和重修泰岳廟碑”の計2行8字が記されている。

金重修東岳廟碑
金重修東岳廟碑は大定二十二年(1182年)に立てられ、岱廟天きょう(貝兄)殿の中庭の東碑台にあり、東岳廟の再建について書かれた碑である。碑は高さ6.37m、幅1.85m、厚さ0.8mで、碑文は楷書で1050字、字径5cmである。碑額に篆書で“大金重修東岳廟之碑”と、3行9字、字径21cmで記されている。この碑は楊伯仁が勅を奉じ文を書き、黄久約は楷書で書き、党懐英が碑額を篆刻した。《金史》列伝に、“伯仁の文章は文句がみやびであり、懐怀英の篆刻が巧みで、当時第一と称された”と書かれてあった。黄久約も書道に長けていて、当時の人は三大名人の作の精華が揃っているとして、“三美碑”と称した。

大定重修宣聖廟碑
大定重修宣聖廟碑は岱廟の炳霊門の北側にあり、金の大定二十三年(1183年)四月二十六日に立てられた。碑は高さ2.37m、幅0.82m、厚さ0.25m、字守純が文を書き、進士劉礼が碑文を書し、碑額を篆刻した。碑文は楷書で69字、字径2cmである。碑額に篆書で“大定重修宣聖廟記”と、4行8字が記されている。この碑文は文句が優雅であり、書かれている事実は泰安の歴史沿革及び金代の歴史研究上の参考となる価値がある。

金重修天封寺碑
金重修天封寺碑は金の大定二十四年(1184年)に立てられ、岱廟碑廊にあり、党懐英の書である。碑は高さ1.8m、幅0.96m、厚さ0.18mである。碑文は楷書で22行、一行40字、計460字で、字径3.5cmである。碑額に篆書で“重修天封寺記”と、字径10cmの3行6字で書かれている。碑文には旧県故城の変遷の歴史が詳細に記されており、泰安の歴史沿革研究上の重要な史料である。

谷山玉泉寺大金敕牒碑
谷山寺敕牒碑は岱廟の東碑廊にあり、金代の章宗時尚書礼部が泰和六年(1206年)と大安元年(1209年)にそれぞれ発表した二つの牒文(公文書)が刻まれている。碑は高さ2.43m、幅0.94m、厚さ0.27mである。碑の上部には四頭の竜が互いに巻きついて、中央に仏壇が彫られ、その中にはお釈迦様が端座されているのが彫られている。その造型は古風で上品である。碑文は上下二層に分かれ、上は谷山寺牒、下は香厳寺牒である。その字は楷書と行書を兼ね備え、雄壮で力がある。碑陰には草書の小字がある。二つの文は格式が同じで、金代の宮廷文章スタイル及び泰山仏教盛衰研究上の実物史料となっている。

天門銘
天門銘は元の至元元年(紀元1264年)に,泰山の南天門前西側の石棚西壁に嵌め込まれている。元代の著名な詩人、書道家である杜仁傑は文を書き、東平路総管厳忠厚が楷書で書き、泰安知州張汝霖と岱岳観主劉徳源、昭真観主翟慶真が石を彫り、これを立てた。碑の高さは1.95m、幅1.48m、楷書18行、一行21字、字径6.5cmである。銘文は古風でみやびやかであり、書体は荘重で重々しい。

東岳去封号碑
東岳去封号碑は岱廟天きょう(貝兄)殿西南にあり、洪武三年(1370年)に明の太祖朱元璋によって立てられ、碑の高さ6.55m、幅1.56メートm、厚さ0.57mである。碑文は楷書9行、一行43字、全部で226字で刻まれ、書法は端正荘重である。碑には碑首があるが、額碑が篆刻されていない。

洪武祭祀碑
洪武祭祀碑は明朝の洪武十年(1377年)、朱元璋が李文忠、呉永輿、睆俿卻?鮓?錣掘?抻海凌世鬚鮑廚蕕擦浸?卜?討蕕譟?什澆和抻海梁夘静軍Ⅲ仕造涼翊蹐砲△襦9發?5.3m、幅1.43m、厚さ0.58mである。

高山流水亭記
高山流水亭記は明の隆慶六年(1572年)、兵部左侍郎(左次官)、総理河道万恭が書を書き、経石峪試剣石摩崖に彫られている。高さ4.1m、幅6.3mで、字は楷書で、字径16×13cm、重厚で古雅である。

建泰山霊佑宮銅碑
建泰山霊佑宮銅碑は碧霞祠の庭内の香亭の西にあり、明の天啓五年(1625年)に立てられ、全体の高さ4.08mである。碑首は高さ0.95m、台座は梯形で、高さ0.92m、幅1.4m、厚さ0.78mで、すべて2竜戯珠が浮き彫になっている。碑のさは2.21m、、幅1.01m、厚さ0.31m、碑額には“建泰山霊佑宮銅碑”、額陰には“聖德神功永伝億载”となっている。碑文は霊佑宮(即ち碧霞祠)を建てた経緯を記載している。碑体は極彩色の美に輝いて、《天仙金阙碑》と東西で対峙する。

康煕重修岱廟碑
康煕重修岱廟碑は清代の康煕十七年(1678年)に立てられ、岱廟天きょう(貝兄)殿の中庭にあり、碑の高さ5.93m、幅1.53m、厚さ0.48mである。碑陽にか楷書で479字、字径4cmで、岱廟の歴史沿革と再建の事情が書かれ、文の後には賛助者官名が4列彫られており、山東布政使施天裔が記したものである。碑額には篆書で“皇清重修岱廟碑記”と、2行8字、字径15cmである。碑陰には岱廟再建履歴が刻まれており、全部で1060字、字径3cmで、武挙張により書かれたものである。

清摩崖碑
清摩崖碑は俗に“万丈碑”とも呼ばれ、朝陽洞東北絶壁の上にあり、清の高宗は乾隆十三年(1748年)に泰山に登った時書いた五言詩《朝陽洞を詠む》を彫ってある。碑の高さ20m、幅9m、字径1mで、現在も完全に保存されている

乾隆重修岱廟碑
乾隆重修岱廟碑は岱廟天きょう(貝兄)殿の東碑台にあり、清の乾隆三十五年(1770年)に立てられ、碑の高さ5.2m、幅1.5m、厚さ0.5m、石刻は精緻で、表面はきれいに磨かれており、光沢があって、鏡のようであるがゆえに、別名“透明碑”とも言う。碑文は18行、一行119字にで、全部で738字、字径2cmで、碑額は無題である。その側にある他の満州語の文18行があって、内容は碑文と同じである。亀形の台座は高さ2m、幅1.6m、長さ3.8mである。

高瞻遠瞩摩崖
これは雲歩橋南盤道の東側の巨石のにあり、1930年9月30日に袁家普が書をかき、高さ5.5m、幅1.85m、字径20×25cmで刻まれた。刻文は次のとおりである。“願同胞努力前進、上達極峰、独立南天門、高瞻遠瞩、捧日拿雲、可以張志気、拓胸襟、油然生愛群救世之心、感斯山之永固乎!国家柱石,曰厳曰峻,巍然吾民族之威棱。(同胞が努力して前進することを望んで、最高峰に達し、独り南天門に立ち、遠くははるかを眺める。太陽を捧げ雲をつかみ、気概をもち、胸襟う開くと、自ら群衆を愛し世を救う念を生じ、山の永久なるを嘆く。国家の柱石、高くて険しい、巍然としたわが民族の威光。)”。

映仏磐刻経
この碑石の南側は、北斉の武平年間の王子椿の隷書《般若波羅密経》が刻まれており、徂徠山光化寺東側の映仏磐にある。85字現存し、三層に分かれている。上層は “般若波羅密経主冠軍将軍梁父県令王子椿”と、高さ30cm、幅40cmの3行の大字で書かれ、中間層は字径25cmの字で4行“普憶武平年僧斋大衆造維那慧游”、下層部は字径20cmの字で14行“文殊師利曰仏言世尊何故名般若波羅密……”と刻まれている。その書法は古拙だが美しく、代々の書道家に推賞されている。

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